
実は、人生の石ころpart4で、実の父のことを書きました(療養中)が、その父は今から2年前にガンで他界しました。
でも、姉もとうとう父が亡くなる1ヶ月前になって私に「お父さん、もうダメかもしれない・・」って
私自身勤めている会社も、辞めて、父の看病につくそうと思いました。
でも、それを決心した翌々日に、父は意識不明になり、それからは、全然しゃべれずに、向こうの世界へと旅立っていきました。
今でも、すごく後悔しています。
でも、父は、告知はされていませんでしたが、自分で覚悟はしていたようです。
亡くなる半月ほど前は、父が病院側に強く要望して、仮退院をしました。
年齢が60歳を超えてから、私の影響もあり、PCに凝り出して、
病気になってからは、病室で、私も子供の頃のように、父の、むくんだ足をさすったり、手を握ったり・・
父の意識不明の連絡を受けて、病室へ飛んで行きましたが、もうすでに
でも、話や会話は伝わっていたと信じています。
子供の頃、父のバイクに二人乗りさせてもらって、遠くにあるスケートリンクへ連れて行ってくれた事。。
社会人になってすぐに母の車に乗ってバレーに行ったんですが、車上狙いにあっちゃって、
父は本当に勤勉で、真面目で、働き者でしたから、何かを懸命にしている背中しか思い出せません。
できればもっともっと長生きして欲しかった。。。
身体は大きな人でしたが、心はすごく優しくて、小さな心遣いも、すごくよく気がつく人でしたから、
父は日々、日記をつけていました。。
いつも、この文章を読んでは、パタンと閉じて、先が読めません。。
何にもしてあげられなかった娘で、ごめんなさいね。
でも、父は、娘にそんな風にいつまでも思って欲しくないときっと思うと思うので、
ね、とーちゃん!空の彼方から、見ていてください!
やっと今になって少し気持ちの整理がつけそうな気がして、こうして文章にしてみました。
それまでは、「父が他界」と文字にするのも、できなかったんです。。
父が実はガンだったという事実は、直前まで姉しか知りませんでした。
それは姉の、私や母に対しての心遣いで、そのように知らせずにいてくれたんです。。
涙ぐみながら、真実を話してくれました。
父の病状を知った時は、「そんな事あるはずないじゃない!胃潰瘍でしょ?父は昔、国体の砲丸投げの選手だったんだから、
身体も大きいし、今まで田んぼ仕事も、畑仕事も、家の仕事も全部何もかも、懸命にしてきてくれたじゃない。。
そんな父がガンなんて・・。病気で命が短いなんて・・・信じられる訳ないじゃないっ!」って、
事実を受け入れたくない気持ちで一杯でした。。
私の年齢からいくと今、職を失うと、なかなか再雇用なんて、難しいのは、
重々承知でしたが、自分が後悔しないように、父との時間をじっくり過ごそうと考えました。
これからたくさん、父や母にいろんな事、お返しができるんじゃないかな・・って考えていた矢先に
父には時間がもう無い・・って知らされて・・・
そんな状況を把握する精神力もまだ無いうちに、父は逝ってしまいました。。
自分の身体の事は、自分が一番良く分かるのか・・
亡くなった後、父の荷物を見ていると、「般若心経」のテープが出てきました。イヤホンをして聞いていたんです。
いろんな調べ物をしたらしく、ガン治療の新聞の切り抜きや資料がたくさん出てきました。
「よくお父様は、病院の図書室へ行かれていましたよ」と後で、看護婦さんからもお聞きしました。
一人で、、、たった一人で、死に向き合って、、、、死に対して強烈な恐怖心を持ちながら、
それでも、病院まで会いに行った私たちには、そんな気持ち一寸も見せずに・・
いつも目が糸のように細くなるくらいの笑顔を見せてくれて、
「よぅ来てくれたなぁ〜」って、、時にはこっちが逆に励まされたり・・・。
家に帰ってきたときの父はすごく嬉しそうで、いつもより食欲もあり、たくさん話もしました。
「気分がいいから、たくさん食べ過ぎた・・・」といってその夜、母に辛さを訴え、次の朝、早くにまた病院へ戻りましたが、
家から車に乗り込むときに、家中をじっくりと見回して、
家の外周りも、ゆっくり歩きながら見て回って、それから車に乗ったのです。
「また、元気に戻ってこなきゃ、いかんよ」っていうと、つらそうな笑顔で、こたえていました。
家で元気な姿を見たのは、その時が最後でした。。
地元の村部の会長になり、チラシを作成したり、年賀状を作成したり、
「おとうちゃん、けっこう、やるねぇ〜」ってたまに実家に行くとPCでの作業の後が伺えるので、
頑張る父を誇らしく思って見ていました。
たまにはおかあちゃんと二人、水入らずの旅行に行っておいで!って行っても、
年老いた祖母がいるから・・といって、絶対に行きませんでした。
昔の話を、私の子供の頃の話をしている時の父は、本当に嬉しそうな顔をしていました。
母と結婚した時の話や、実は父は独身の時に木材工場に働いていて、誤って右手の小指を切り落としてしまっていたので、
私が生まれたときから、父の右手には小指がありませんでした。
母との結婚が決まり、母の両親の前で、両手をついて、「今後も宜しくお願い致します」と挨拶をした時に、
母の両親から、「こんなやくざのところへは娘はやりゃせんっ!」と反対されたそうです。
よくよく小指がなくなった理由を説明したところ、結婚を許してくれたそうですが、そんな話も、病室で聞いたのが初めてでした。
目線は向こうの方へ飛んでいましたし、話もできる状況ではありませんでした。
目も自分では閉じれず、乾燥してつらそうなので、ぬれた脱脂綿をかけてあげたり、時にはひきつけを起したり。。。
身体はもう父の意識では動いていない状況でした。
その証拠に、私の3人の子供達を、父の枕もとに連れてって、
「おとうちゃんっ!頑張って!まだまだ一緒にこれから生きていこうっ!
この子達の大きくなった姿を見てほしいから!頑張って!」
って話し掛けると、父の目からは、大粒の涙がこぼれてきたんです。。
それを見てから、私は、意識不明の父にずっと話掛け通しました。
父と手を繋ぐなんて、実はすごく恥ずかしくて嫌だったけど、手を繋がないと滑れなかった事。。
遊ぶのが楽しくて、帰りがすっかり遅くなってしまい、父のバイクに乗りながら、真っ暗な道を飛ばして帰ってきた時の
真っ暗な闇の中に青白いバイクのメーターの色だけが浮かび上がっていた事など、
父に「あの時は本当に楽しかった♪有難うね。」って、父の髪を触りながら話し掛けていました。
その事実を父ではなく、付き合っていた彼氏(今のダンナさん)にしか相談していなくて、
後で、父にすごくしかられた事。(どうしてそんな大事なことを父親に隠していたんだっ!)ってすごい剣幕で怒鳴られました。。
自分の娘が、父よりも、好きな彼氏のほうを頼りにしていたんだと、感じた時、ものすごく寂しい思いをしたそうです。。
夢に出てくる父は、いつも家を片付けていたり、修理をしたりしています。
今こうして文章にしていても、思い出す事がたくさんあって、やっぱり涙が出てきてしまいます。
病室に行く時に、お花を持っていったんですが、その花籠の中に、恥ずかしいのでひっそりとメッセージカードをつけていましたが、
亡くなった後荷物を整理したときに、父は自分のお財布の中に、私が書いたメッセージカードをしっかりと取っておいてくれていました。
「病院なんて、おとうさんには、似合わないぞ!早く退院して元気になってね!」
そのメッセージカードを見たときは
「こんな物まで、とっておいてくれたんだ」と、またまた涙が止まりませんでした。
誰の目にも触れないよう、しまわれていましたが、その日記が出てきたときは、衝撃でした。
強烈すぎて、最後まで、いまだに読んでいませんが・・・
自分の身体の不調の事、病気にやられる自分の情けない心情などが書かれてあります。
普段父がこんな風に思っていたのか・・・と痛いほど感じ取れるので、本当につらくなってしまいました。
その中に、このような文章がありました。。
この先、父がどんなに苦しく、心配をかけさせまいと一人で辛い思いをしていたかと思うと、その先のページを開けないんです。
そう思うとつらくてつらくてやりきれなくなって、何もする気が起こらなくなってしまいます。
もう今さら亡くなってしまってからでは何もしてあげられないっって思うとドン詰まりになってしまうんです。
皆さんには、こんな辛い気持ちには、なって欲しくないので言いますが、
本当に日頃から、感謝しているのなら、それを言葉や態度で、少しでも伝えていったほうがいいと私は思います。
私はそれができなかったから、、、、後悔し通しの日々でしたから・・・。
そんな風に考えるのは、辞めようと思いました。
父といた時はすごく幸せでしたし、父の事は本当に自慢です。
大好きでした。年頃になってからは、あまりしゃべれなかったけれど、大事なときには、方向性を示してくれました。。
でしゃばらず、それでいて存在感があって、どこのどんな偉い方よりも、私にとって父はすごい人だと思っています。
これからも、私達の事を育ててくれた父へ、有難うの感謝を忘れず、
そして無理だと思うけど、少しでも父のような人間に成れるよう、努力していかないと・・・と思っています。
時には、叱咤を。。時にはエールを、何かのサインでしらせてね。。娘だから絶対に、キャッチしますから・・・。
