|
人は、食べることと寝ることに飽きることはない。飽きたらおしまいである。ところが、近年、深夜になっても起きている子ども、食べることを拒否する子どもが増えている。生きることの根源である睡眠と食事を、ちょうど鉛筆を削るように削ぎ落としている。そして、つんつんとした鉛筆の芯のように神経を削ぎ澄ませていく子どもがいる。
幸せなことに、現代の日本社会は誰もが事欠かず、そして、求めに応じて24時間いつでも活動できる社会である。テレビから飛び込んでくるアフガン難民の姿を見るにつけ、このような幸せを享受していてよいものかと、心が痛むところである。しかし、このような現実課題はあるにせよ、今の日本は人類を脅かしてきた飢餓や昼夜の時間の拘束などから解き放たれた社会である。
サルからヒトに至る人類進化の過程をたどってみると、それは飢餓との戦いであったのだろう。何も持たぬ裸のサルが食料を得るためには、「協力という関係」が唯一の武器だったのである。人類の歴史は、この「協力という関係」を本能のように自らの身体に組み込んできた歴史でもある。精巧に進化してきたことばの存在、生まれた瞬間から他者の助けなしには生きられず、しかも、他の動物なみに歩けるようになるのは1年もかかる新生児の存在(生理的早産といわれる)、どれももうすでに、人類の中には「協力という人間関係」が遺伝のように組み込まれてしまった証である。「人間」とは上手く表現したものである。ヒトはまさに、人間に進化してきたわけである。
現代人にとって関係への希求は、根源的・生理的欲求になってきているかもしれない。ことに、睡眠や食事がこともなく満たされている現代では、関係への満たされない想いや、その一方で執拗に求められる個の確立(主体性・個性・自立などの重視)は、全ての人を「癒される関係」の求道者にさせてしまっている。かつて、白いご飯に対する異様な執着が、集団的トラウマとなって、戦前・戦中派のエネルギーになったように、関係への渇望が新世代のエネルギーと変化するかもしれない。しかし、なんとも悲しいエネルギーである。そんな中で私たちにできることは、誰もが目を輝かすことのできる社会的な物語の提供であろう。
|