第27号  離見の見
 
岩本 日出男  福井県立福井養護学校校長(1990年)
 先日、国立特殊教育総合研究所へ短期研修講義に出かけた。私は与えられた時間いっぱいを先達が教育に何をかけてきたかについて話したつもりである。約50人の受講生は熱心に耳を傾けてくれた。「面白かった」「胸がすうっとした」という感想が返ってきた。
 最近、特殊教育も進んできていろんな方法論が台頭している。有難いことである。障害児をもつ親たちはどんな小さな変化にも一喜一憂し、それが訓練や刺激の効果であってほしいとの願いは熱いものがある。そう思うことによって苦しい胸の内に一つの光を見ようとしているからである。
 それぞれの方法論はそれなりの図式があり、実践者を引きつけるものがあって普汲していく。ある人は信奉し、何でもかでもその方法をもって改善を図ろうとし、結果を良い方に結びつけようとする。しかし、方法論は万能ではない。失敗を素直に失敗といえる所に科学的根拠をもつ方法論となっていくことを見落としがちになる。
 限界のあることを知って、なおかつその方法を試行する者こそ真の実践者といえる。研究会の席上などでいつも「うちの子はこんな状態ですがどうしたらよいでしよう。」という質問が出る。方法論を求めているのである。助言者は「それはこうしたらよいでしよう。」と答える。「有難うございました。」何がわかったというのだろうか。先ずこの子の状態はといって説明する質問者の見方にはすでにその人の価値観が入っている。助言者は、助言者の価値観で答弁している。そこでやりとりされた会話は大きな矛盾のみが残されることが多い。
 方法論には良かれ悪しかれ哲学がある。その哲学を学ばずして方法論にとびつくことは、実践者として軽率としかいいようがない。忙しい実践者には少し酷かもしれないがもう少し心のゆとりがほしい。自分が今やろうとしていることを自分を離れて自分を見る時間がほしいと思う。
 方法論には技術が要求される。技術となると得て不得手があり、力量が問われる。技術が先行すると技術におぼれることも多い。自分を活かせる技術であってこそ次が見えてくる。先の見えない技術は所詮かりものであり後が続かない。
 どんなに下手くそといわれようと、自分の得手とする技術・方法論をつくり上げていく努力がいま求められている。時間をかけることで自分の考え方もつくり上げられていく。全国各地へと帰って行く受講生があせらず、うまず自分の特殊教育を育ててほしいと念じつつ、研究所を後にした。