第16号  ここに関門あり
 
高務 祐成  福井県養護学校研究会長 (1987年)
  去年11月の頃だった。丹生高校から電話があって、3年生のM君が3月福大の養護課程を受験し、将来養護学校の教員になりたいと思っているが、自分の一生をかける問題なので、養護学校で特殊教育を経験し、児童に直接触れてみたい、ひとつ清水養護学校で体験させていただけないか、ということであった。私は快く承諾した。試験休みの折、この高校生がやってきた。爽やかな感じのする体の大きな青年だった。第1日目の朝礼の時、時間の余裕がなくM君の紹介だけですぐ実習に入った。2日目の朝、彼は挨拶を申し出た。昨日はご挨拶できなかったので、改めて挨拶したいというのである。許しを得て彼の挨拶が始まった。彼の人柄を偲ばせる爽やかできびきびした若者らしい挨拶だった。その中にこんな言葉があった。「昨日、僕が初めてこの学校の児童を見たとき、その障害の重さにびっくりした。だが、昼ご飯が済んで午後子どもたちに接したとき、もうその子どもたちが障害児に見えなかった。健常児と少しも違っていない普通の子にしか見えなかった。僕は、僕の頭がどうかなったのではないかと思った。」というのである。
 この言葉を聞いたとき、教職員の間から大きな拍手が湧いた。賛同のしるしだった。禅の悟りにも似たこの一瞬の機は、迷界から悟界に入るように特殊教育の関門である。それを、難なく、実に自然に越えたのだった。眼前にある障害にとらわれることなく、それを越えて眼はすでに人間性、いやかわいい子どもそのものを見ているのである。教員でもこの関門を越えられない人がいる。子どもに嫌悪の情を抱くはもちろん、避ける人もこの関門を越えられない未熟の人であり、手を振り上げる人に至っては、教育者たる資格さえ無い人に思われる。介助の人を含め全員が拍手した陰には、重い障害の子を受け止め、かわいがり、鼻汁とよだれの口を寄せてする口づけを楽しく受け止め、排泄物を素手のまま両手で平然と受けている現実があればこそ、以心伝心の賛意が示されたものと思うのである。ここに、関門を見事突破した者への共感があったのである。
 今も昔と同様、若者への批判は厳しいが、自己の生涯を障害者のために捧げようと決意している若者がいる限り、日本の将来は安心だと私は思っている。この折り目正しい好青年のM君は、先日、福大の養護課程に推薦で入学したことを、律義にも報告に来たのだった。