「管理職選考受験資格確認等請求訴訟」

             最高裁判所意見陳述

 
2004年12月15日 最高裁判所大法廷

       

鄭香均

 

 私は日本国憲法の基本的人権の理念を知ったことによって、これまで人として拠って立つべき根本に触れたと信じて生きてくることができ、いまこの瞬間、最高裁判所の皆さんの前にこうして立つことができた人間です。陳述を始める前に、今この場で意見陳述の機会を与えてくださったすべての方々に感謝いたします。

  私の父は23才の時に言論著作出版厳禁の命に逆らったとして逮捕され、国外追放の処分を受け故国から追われ、日本に来ることを余儀なくされた強制的日本臣民です。母は「家」の因習から逃れ、父のところに身をよせた日本国籍者です。その頃、母が詠んだ短歌です。

     身ひとつを捨つるほどの広さあり祖国なき人の肩の高みに

 私はこのような両親のもとで1950年、日本国籍者として生を受けました。父は1960年、韓国において学生達を先頭にした民衆蜂起「4月革命」以後、 60歳を過ぎて祖国に帰ることを許されましたが、その間、創氏改名に屈せず不逞鮮人の烙印を押された父の周辺には、常に治安警察が張りついていました。


  私は母の国を恨み、韓国人である父を恨み、何故結婚したのかと心の中で両親を絶えず攻撃し、私は混血の子どもはつくらないと決意し、自殺することばかりを考えていました。しかし中学2年生の時に憲法の前文を読み、違う考え方を持つことができるようになりました。前文を読んで私は侵略戦争による膨大な犠牲者への鎮魂歌であると思いました。平等、自由などに関わる基本的人権宣言と「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という戦争への反省からくるすがすがしい宣言に感動し、はじめて母をそして母の国を許したいと思いました。そして家の前で見張っていた人たちや、差別している人々はこのような憲法があることを知らないのだと想い、「神様、彼らは何をしているのか自分でわかっていないのです。彼らをお許し下さい。」と祈りました。

 裁判官の皆さんは日本の戦後の歴史をよく御存知と思いますが、敢えてここで振り返らせていただきます。何故なら戦後半世紀以上、数世代を経ても日本国籍者にならない、世界でも特異な少数民族である在日韓国・朝鮮人が誕生した歴史であり、日本の戦後処理の不十分さの象徴だからです。

  新憲法のGHQ草案には、人種や国籍による差別を明確に禁止する13条と16条がありました。しかし日本政府や国会は、翻訳時にこれらが重複しているとGHQに説明し、両方とも削除したのです。また「The  people」を「国民」と改訳し、その一方で国民とは「あらゆる国籍の人々all  nationals」の意味だとGHQに説明したことが明らかになっています。


 1947年、こうして外国人を閉め出すべく文言が細工された新憲法施行の前日、外国人登録令が出され、日本国籍を有しているにも関わらず私の両親を含む旧植民地出身者は外国人登録証の常時携帯が義務付けされ、治安管理の対象とされました。そして、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が締結さ れGHQによる占領統治が終わるとともに、日本政府は一片の民事局長通達で一方的に旧植民地出身者の日本国籍を剥奪しました。この時点で旧植民地出身者である父も日本人である母も私も兄弟も、その意思を表明する機会を与えられることもなく一方的に日本国籍を剥奪されました。

  

 このように朝鮮人、台湾人を完全に排除し、かつ治安体制下においた2日後の4月30日に、戦傷病者戦没者遺族援護法が日本国籍者にのみ適用されました。他方で同じ1952年に行われた戦争犯罪の刑においては、「国籍の喪失または変更は戦争犯罪者としての義務に影響は及ぼさない」として朝鮮人23名、台湾 人26名が死刑になっています。さらに翌年1953年、軍人恩給が日本国籍者にのみ支給されました。そして内閣法制局による「当然の法理」の見解が出され たのも、この年です。講和条約発効前に、国家公務員は83名、地方公務員は122名おり、初の帰化申請がなされた52名はこれら公務員からです。この一連の過程で、台湾人や朝鮮人など旧植民地出身者、そしてその子孫に及ぶ何百万人から市民権を奪うことに日本政府は成功したのです。こうして、何世代を経ても出生国の国籍を取得しない少数民族である、在日韓国・朝鮮人という世界的に特異な存在が成立させられました。

  

 さらに在日韓国・朝鮮人二世にとっても公務員の職種が自覚され、採用要求が挙がる時代を迎える1973年、自治省は将来予想される地方公務員の一般事務 職等について外国人の受験資格を否定し、さらに1979年「国家意思」を「公の意思」へと拡大させ、さらに1983年、政府見解によって小中高校の教諭から外国人一般を排除するという、排除と抑圧の制度を作り続けてきたのです。

  
 これらの流れに抗すべく、1970年代の後半から国籍による就職差別撤廃を求める市民運動が始まり、一般大企業は勿論、弁護士や公務員でさえ聖域ではな くなり、1986年保健師の受験資格からも国籍条項が外れました。私はこの運動の結果、1988年日本国籍者と同じ試験を受けて採用され、日本人と全く同じに働いています。にもかからず昇任試験を受けることも拒否する自由も外国籍者の私には無いのが「当然の法理」であり、あまりにも当然のことだから記載さえしないのだと、言われました。理由の説明すら、条文の記載すら必要としないというその対応に、私は自分という人間の人格が否定されたと感じました。

  
 私は公衆衛生という公共的な仕事の実践を自分が属する地域共同体の中で住民の声を垣根なしできくことができる保健所で行いたいと希望したにすぎません。公務員として、私も日本国籍の同僚も法に即して仕事をしており、恣意的な公権力の行使はしておりません。また国家の意思形成にも参画していません。国家意思の形成を行っているのは国の公務員のはずです。地方公務員も国家意思の形成にたずさわっており、法や条例によらず恣意的に意思形成ができるという考え方は、明治憲法下の官吏の発想が残っていると言わざるを得ず、突きつめれば国民主権の意義自体を否定するものです。
 現在の地方公務員制度は、日本国籍者であれば法を無視した公権力の行使を行ったり、自らの政治的意思を公の意思に反映させる余地を残しているというのでしょうか?今、地方公務員の仕事を民間に委託する動きが盛んです。民間企業が国籍で就職を拒否すれば憲法違反です。「当然の法理」によって外国籍者が就くことができないとされている許認可事務や監視業務の多くが民営化され、民間で可能となりつつある事実は、法に忠実な執行であれば民間であっても外国籍者であっても良いという証拠に他なりません。

  

 「当然の法理」は立法府である国会によって議決された法律ではありません。行政府のつくった、いくらでも拡張解釈ができる抽象的で曖昧な基準によって、憲法で保障された基本的人権が侵害されている時、地方参政権も与えられていず、社会に自分たちの権利と意思を反映させる手段のない、分離された少数者である外国籍住民の人権を回復、保障することができるのは、司法をおいて他にないのです。今この瞬間、この国の憲法が誇り高く掲げた基本的人権の保障という素晴らしい理念が、実質をもつのも空文化するのも、ひとえに憲法の番人と呼ばれる最高裁判所の姿勢ひとつにかかっているのです。
 「当然の法理」を、国民主権を援用して日本社会の外国人施策に据え、排他的な一元社会へと走るのか、それとも人権の普遍性を認めるのか。どんなメッセージをアジアに、世界に発信するのか、日本の岐路であり、着陸点が問われていると考えます。裁判官15人ひとりひとりの理念性・道義性をかけ、人が人であるが故にもつ人権に焦点をあてた判断を示して頂きたい。政府の横暴に対して裁判によって司法判断を求めることは、参政権なき少数者にとって、人であるが故に自分が持つ人権を守る唯一の手段であり、それゆえに裁判所は民主主義の最後の砦なのです。その使命を果たすべく、最高裁が大法廷において初の司法判断を示そうと決意されたことに敬意を表します。

  

 高裁判決後7年間、提訴から10年間、職場当局との未解決の紛争を抱えたまま、黙々とその職場に通い働いてきました。ただひたすら待たされたとしても、 最高裁が憲法と基本的人権の砦である証しとなる判決を下していただければ、私のこの7年間は、いいえ、提訴からの10年間は、私にとっても、日本社会にとっても、そして人類にとっても、有意義な年月となるでしょう。そして私が少女の時に見た、日本国憲法の輝きが決して幻ではなかったことが証明されます。

  

 最高裁では本人の意見陳述は異例と聞きました。行政も司法も、民主主義の実現は権力から疎外された民衆の声に真摯に耳を傾けることから始まるのではないでしょうか。生身の人間として日常的に接するなかで、職場の同僚も地域の人々も私という人間に偏見なく接してくれるようになりました。私も住民自治を基本とする地方行政の一員をなす公務員として、住民の声を受け止めて仕事をしてきました。

  

 地方公務員としての良心にかけて、私という一個の人格の尊厳にかけて、行政が法によらず、地域住民の声に基づかず、権力を行使して良いというに等しい「当然の法理」を、地方自治・住民自治ぬきの国民主権論を、国家統治機関論を、私は受け入れるわけにはいきません。21世紀の日本と世界に希望がもてる最高裁の賢明な判断を心から願うものです。

 

 


4月革命=1960年3月15日、正・副大統領選挙の不正を契機に学生たちを先頭にした民衆蜂起「4月革命」が起こった。このことにより12年間にわたる厳しい政治的弾圧で維持されてきた李承晩政権の幕が閉じられた。

 13条:すべての自然人(all natural persons)は法の前に平等である。人種、信条、性別、社会的身分、カースト、または出身国により、政治的関係、経済的関係または社会的関係において差別されることを授権しまたは容認してはならない。

 16条:外国人は、法の平等な保護を受ける。

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