「天元」を囲碁術語として最初に用いた人物は、江戸時代の安井派のホープ、保井算 哲だったようです。算哲は、なかなかの 博学で、とりわけ天文学に精通していました。棋士として碁を打つかたわら、幕命を 受けて暦の改訂にあたりました。算哲は、天文の要素を囲碁に転用することを着想し ました。彼は、碁盤の中心を宇宙の中心になぞらえて「太極」と呼びました。「太極」 は「天地がまだ分かれず、宇宙の天気が混沌として一つである状態」です。算哲は「 太極」を「天元」とも呼びました。彼にとって「太極」と「天元」は完全に同義だっ たのでしょう。そして彼は、こういう論理を作り上げました。−「太極」あるいは「 天元」、すなわち宇宙の根元になぞらえることができる碁盤の中心を占めれば、その 後の展開がどうあろうと、碁に負けることはあり得ない、と。
寛文十年(1671年)算哲は、のちの第四世本因坊道策に先でお城碁を打ちました。彼は 敢然と”天元の第一着”を放ちました。しかし、結果は九目負けに終わりました。そ の後、算哲はお城碁に十一連敗しました。彼は、囲碁が天文とはまったく別物である ことを痛感したでしょう。
いっぽう幕府直属の天文学者としての仕事はますます多忙になりました。貞亨元 年(1684年)、算哲は棋士のキャリアに終止符を打って、名前を渋川春海と改め、あた らしい職務に専念することになりました。では、「碁盤の中心」の意味で、なぜ「天 元」が今日まで残り、「太極」がすたれたのでしょう?たぶん一つの理由は、「太極 」よりも「天元」の方が囲碁術語としての際立った独自性を持つからだと思います。
クチナシは、本州中部以南ではきわめてポピュラーなアカネ科の常緑低木です。念の ために、ある辞書の説明を紹介しますと、クチナシの実は「長さ三センチの長楕円形 で蕚筒(がくとう)に包まれたまま黄赤色に熟す。古くから黄色染料に用いられ、漢方 では山梔子(さんしし)といって利尿剤にする」とあります。実が蕚筒に包まれたまま 熟す」、つまり口を開かずに熟すことを「口なし」とシャレたのが、木の名の語源の ようです。そして、従来の常識によると、碁盤のクチナシ足は対局者に「”口なし” であれ」と緘口令布く意図をもつといいます。しかし、この常識は、囲碁についての 卑怯なウソ手の一つでしょう。
クチナシ足は、むしろ囲碁の別称「手談」に由来すると思われます。「手談」は、古 い古い別称です。いまから二千年以上も前に、中国の晋の時代の支道林という博学の 坊さんが考え出したとされています。意味は、もちろん「盤をはさんで碁を囲めば、 まったく無言−”口なし”−で対局者の情意は通い合う」です。いかにも高僧の創作 にふさわしく、ゲームとしての囲碁の真髄の一半を洞察した別称です。クチナシ足は、 この秀逸な別称を飾るために、彫られたものに相違ありません。
ついでながら、クチナシの実の色も無視できません。辞書の説明にあるように、クチ ナシの実は「黄赤色」に熟し、「古くから黄色染料に用いられ」ました。その黄色は、 碁石の黒・白にいちばんよく調和する、盤面の色でもあります。クチナシ足は盤面と 請呼応し合って、碁盤の色彩美のダメを詰めるフクミをもちます。とはいうものの、 碁盤の足は最初からクチナシ足だった訳ではありません。早くても近世の初頭によう やく生まれ、時代とともに正統派としての地歩を占め、現代に入って碁盤の工芸化が 急成長するのにともない、広く普及したようです。
古代人は、こういう色の本質を理論でなく実感で体得していたようです。といいます のは、彼らにとって、黒と白につながる昼と夜、光と陰、明と暗は、自然界・人間界 におけるいっさいの対比の基本だったからです。ギリシャ人は、色を黒と白から分け はじめました。その長い名残でしょう、西洋チェスも、駒は黒白、盤も黒白の市松模 様です。
しかし、黒と白の観念は西洋よりも東洋で、ずっと大きな文化の花を咲かせました。 古代中国の素朴な色彩学では、五つの正色(まじりけのない正しい色)を決めました。 黒と白は二つの正色に数えられました。黒と白は東洋文化の精髄をあらわす色だった −といっても、言い過ぎではありません。
中国でゲームとしての囲碁の原形が完成した時期と、碁石の色が黒白に定着した時期 とは、あまりズレていなかったでしょう。もし囲碁が二人でなく三人で打つゲームだ としたら、石の色は黒白ではなかったでしょう。当然、もう一色必要になるからです。
黒と白の中間には、同じ無彩色の灰色があります。けれど、黒・灰・白ではあまりハ ッキリした区別がつきません。石がこみあってくると、目が白黒しそうな感じです。 三つの色を使うとなれば、今度は赤・青・黄に落ち着くでしょう。黒白は明暗対比の 極致ですが、三原色は色相対比の極致です。仮に囲碁が三人用のゲームだとしたら、 多分碁石の色は赤・青・黄になっていたでしょう。現に子供たちが三人で遊ぶダイヤ モンド・ゲームは、駒も盤も三原色に塗り分けてあります。
囲碁の本家本元である中国で、「方円」を「囲碁」の意味に使ったケースは、ほとん どありません。「囲碁」としての「方円」は、どうやら和製漢語です。あるいは囲碁 術語の一つとさえいえそうです。中国流「方円」の内容は「方と円」以上ではないよ うです。それでも方形と円形は、それぞれ最も基本的で、おまけに対照的で調和し合 う図形として、古い中国文化の中で、早々と形に就きました。
孔子は、易の本質が「円形のように」深奥で究明しにくく、易の結果が「方形」のよ うに鮮明で理解しやすいと言いました。また、別の思想家は、天を円形に、地を方形 にたとえました。円形は渾然たる完全の相、方形は整然たる確定の相です。私たちが 「人格円満、品行方正」という時にも、円形と方形が、ちゃんと下敷きになっていま す。
円形と方形は、東洋的なデザインの最初の構成要素でもあります。いろいろな幾何学 模様も、元を正せば、正方形に内接する円形から出発したといいます。円形と方形に は、豊かな思想と造形の実績があります。囲碁は、その二つの図形によって成り立つ ゲームです。
碁盤が十九路になったのは、やはり唐の時代らしく、路数は暦から来ています。つま り、十九かける十九は三百六十一。一を万物の起源の数として除くと、残りは三百六 十。三百六十は、当時の暦では一年の日数でした。
三百六十を四分すると九十。碁盤の一隅九十目ずつは春夏秋冬の九十日に当たります。 辺の目数は十八かける四で七十二。七十二も、暦に関係があります。古い暦では五日 を一候、六候を一ヶ月としました。一年は、六候かける十二で、七十二候になります。
碁は、”時”を現す縦横十九路の線を”地”につながる方形の盤に描き、その交点に ”天”につながる円形の石を置くことで、時間と空間を統合します。
西暦紀元前およそ七百年の晉の中期に、河南省新安の田舎に王質という木こりが住ん でいました。ある日、王質は、近くの石室山(石橋山ともいいます)に木を切りに出か けました。王質は山の中で、二人の童子が碁を打っているのに出会いました。二人が、 あんまり楽しそうに碁を打っているので、ついつい王質も立ち去りがたくなりました。 童子は王質にナツメの種のようなものを差し出して、「これを食べれば、いつまでた っても腹が減らないよ」と言いました。王質は斧を肩からおろし、腰をすえて碁の観 戦を決め込みました。
ところが、しばらくすると、童子が言いました。「ほらほら、おまえの斧の柄が腐っ ているよ」。王質はびっくりして、あわてて自分の村に帰りました。けれど、知って いる人には、もう一人も会えませんでした・・・。日本の浦島太郎が龍宮城で時間を 忘れたように、王質も童子の碁に見とれて、アッと言う間に何十年かを過ごしたとい う訳です。
爛柯の原話では、王質は童子の対局を観戦します。ですが、中国には仙人や賢人が碁 を打つ伝説や実話が、いくらでもあります。二つの話がサバキようもなくカラんだの でしょう。いつの頃からか、童子は老人に変身しました。ともあれ、この伝説から爛 柯が囲碁の別称として愛用されるようになりました。たとえば、江戸末期に碁界四家 元の一つ、林派を主宰した舟橋元美は、爛柯堂と号し、有名な囲碁エピソード集『爛 柯堂棋話』を書きました。
いっぽう、古い中国で「白衣」は無位無冠の平民の服でした。白衣を着た「白人」「 白丁」は、どちらも「普通人」の意味です。そんなことから、中国では、下手が白、 上手が黒で碁を打つ習慣が出来たのでしょう。
けれど、日本では、最初から下手は黒、上手は白で碁を打ったようです。日本人は、 それは白が好きな民族だからです。実例は、たくさんあります。たとえば、ある国語 学者が『万葉集』の中に使われている色彩を総ざらいしてみますと、白の用例が色彩 全体の用例の約四割を占めました。同じ分析を平安時代の『後撰和歌集』に試みます と、色彩の五割以上が白でした。
第二次世界大戦後、日本人の色彩感覚は生活様式といっしょに、かなり変化しました。 それでも、ある調査によると、子どもから大人まで男女ともに平均して好きな色とし ては、白が最上位の一角をおさえました。そんなふうに、日本で黒が白の優位に立つ 例は、めったにありません。下手が黒を持つのもうなずけます。
めったにない例の一つに「素人」と「玄人」があります。「素」は色がついていない 白い布」から「物事に未経験な状態」にダウンしました。「玄」は「何度も染め返し た黒い色」から「物事に経験豊かな状態」にアップしました。やがて、「素人」はア マ、「玄人」はプロと、差が開きました。素人と玄人は、黒と白との、珍しい逆転劇 です。
延喜年間(西暦900年頃)には、寛蓮という碁の強いお坊さんが出ました。寛蓮は、愛棋 家の天皇や貴族に連戦連勝するいっぽうで、妖怪がバケた女性に完敗するなど、いろ いろなエピソードで囲碁外史を飾りました。
第一世本因坊算砂は、日蓮宗のお坊さんでした。彼は、京都の寂光寺の脇寺・本因坊 の住職でした。寺の名前が、そのまま碁の流派の名前になりました。
もっとも、碁の普及が進んで、俗人の専門棋士が活躍するようになると、囲碁正史に も、碁に強いお坊さんが特記されることはなくなりました。
英国人のデビッド・ミッチェルさんは、1977年7月10日、午前11時に対局を 開始してから延々と打ち続け、打ち止めにしたのが7月12日、午前9時。試合時間 の合計は、何と46時間にも上り、この間の対局数は152局を数え、結果は119 勝31敗2ジゴでした。
相手になったのは、同氏の友人40人で、入れ代わり立ち代わり、かつ激励したとい うことです。一局あたりの平均時間は約18分。あなたも、この記録に挑戦してみま せんか?
プロ棋界では、昭和52年6月から11月にかけて作った林海峰九段の二十四連勝と いうのが大レコードです。通常、勝負は五分五分の筈ですから、二連勝でも四分の一 の確率です。二十四連勝だと、実に千六百七十七万七千二百十六分の一という計算に なります。
なお、棋士の昇段を決める大手合いだけに限れば、石田芳夫九段が四段から六段にか けて作った三十連勝。ジゴとか無勝負などを含んだ、土つかずの記録となると、趙治 勲棋聖が二段から五段にかけて記録した、大手合いでの三十七局。
昭和39年、当時全盛の坂田栄男九段が打ち立てた、三十勝二敗。勝率、実に九割三 分七厘五毛。数ある記録の中でも、林海峰九段の二十四連勝と並ぶ不滅の大記録とさ れています。
負けたのは、名人戦の挑戦手合いの第二局目を藤沢秀行前名人にやられたのと、十段 戦の挑戦者決定戦で藤沢朋斎九段に敗れた二局のみ。秀行戦の方は七番勝負だから四 勝一敗で名人位防衛に成功しましたが、朋斎戦はこの一敗がたたって、碁界完全制覇 は成りませんでした。この年、坂田九段の得たタイトルは次の七冠です。
名人、本因坊、日本棋院選手権、プロ十傑一位、王座、日本棋院第一位、NHK杯
星野紀九段が入段試験手合いの時、相手の某少年が序盤早々に一手八時間の長考で体 力戦を挑んできたのに対し、次の一手で倍の十六時間にしてお返ししたそう です。一手の長考時間レコードは、星野初段格(当時)の十六時間でしょう。
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