清水龍山1870〜1943
玄宗院日淵
・幼名を清水才助
・大正・昭和の宗門教育者

越前市出身)

明治3年、越前市高木町 清水才兵衛の2男として生まれ幼くして父母に死別、7歳の時鯖江一乗庵山本智光尼に引きとられ、武生市聞法寺藤岡日尊について得度した。当時和歌山感応寺南紀学林学頭としてその名の高かった上木日令のもとに師事し、龍山が日令と出会ったことが彼の宗学者としての将来を決定したといってもよい。15歳の時日令に従い中山檀林に学び、次に日蓮宗大檀林、祖山学院に入り、第1回の内地留学生に選ばれ比叡山に笈を負い、天台学研鑽に没頭した(25歳)。留学後はそれまでの教学研究の成果を次々と発表し、宗学の若手第一人者としての名を挙げていった。明治三七年東京大崎に日蓮宗大学林(後立正大学)が移転するや教授に就任。同年35歳の若さで本山日本寺の法灯を継承、ここに龍山は名実共に日蓮宗宗学の責任者として立ったのである。(昭和4年学長、昭和10年再度学長就任)。
大正5年には天皇本尊論を、日蓮教学を歪めるものと危惧し国体論的曲学の風に警笛を発した。このように日蓮宗学の樹立に寝食を忘れ、宗門と大学のために第一線に立って論陣を張ったが、世は次第に軍国主義におおわれ、きわもの的国体主義者から「不敬反逆者」と攻撃され、時代と宗学との関連に苦慮する日々が続いた。昭和16年、第二次世界大戦に突入する年、古稀をもって学長を辞任。昭和18年、法主国従を叫び、時代の嵐の中で日蓮教学の純粋性を守ることに尽力した74年の生涯を閉じた。

墓所 : 滋賀県立泉寺